「安全」と言ってほしいのはわかるがへどがでる

誰もが「安全」「絶対大丈夫」って言ってほしいんだろうけれども。

「安全」とか「絶対大丈夫」って言っても本当に安全か、絶対大丈夫っていうのは捉える側の主観に左右されるから誰もそんなこと言えないし、言ったところで「違う」「裏切られた!」というにきまっているからいう必要もない。言ったからといって言った人が感謝されるわけでもないしあがめられるわけでもないし、それが裏切られたときに言質を取られるだけだ。だれも責任なんて取りたくない。ましてや自分が理解しがたい人間、目の前にいくらでも勉強できる書物やインターネットがあるにもかかわらず自分でその情報を取捨選択せず、専門家や有名人が言ったからといってそのまま鵜呑みにしてしまう人を安心させることに何の意味があるのか。

と少なくともわたしは思います。
ちょっと前に「自己責任」がはやりました。それに近いことを感じる。
まあ放射能の危険は自分が無差別でたばこを吸う吸わないや自動車に乗る乗らないは自分が選んだ結果であるから同じように扱うことができない、という理屈もわかるんだけどでも電気を使うは自分が選んだ結果なんだなあ。

安全なんかない。それは3月11日以前も以降も。
だから明日も大切にしよう。